たいていの人間は、自分にとっての「ヤスクニ」に「向い合う」なんてできないだろう、ということ

http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/16402.html
この記事を受けた上での

http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20140104/1388854653
こちらの議論の続きになってしまうので、初めて御覧になった方はやや意味不明だと思いますが、その点はご容赦ください。

まず最初に注意していただきたいのですが、私はいわゆる「歴史修正主義」的な言論を肯定するつもりはありません。
ですから旧日本軍の戦争犯罪が追求されること、それ自体は大いに結構、そう考えています。

また旧軍に限らず、他国の行った戦争犯罪が追求されること自体も、それ自体としては別に否定するつもりもありません。

しかしですね、私は上でいわれている所の「直視しにくいことに向き合う」ことを本気で実践するのが、果してどれほどの人間に可能か、非常に疑わざるをえないわけです。
(だから仕方ないのだ、とは申しておりません、念のため)

そもそも上の記事を書いたキル記者なり掲載したハンギョレ新聞にとって、ベトナムでの韓国軍の虐殺なり、朝鮮戦争になされた良民虐殺は、どのような意味で「直視しにくい」ことだったのでしょうか。

仮にも同胞とされる人間が、そのような残虐行為を行った事に対する羞恥心、反省心というものは、当然存在したでしょう。
まさかそんな事をするとは、という驚愕もあったでしょう。
しかし、ハンギョレの伝統的な姿勢からいって、それは自身のアイデンティティーや帰属意識自体を揺さぶられるような「直視しにくさ」ではなかったはずです。
なぜならハンギョレはリベラル系のマスメディアとして、軍による人権侵害、不法行為に対して厳しく目を光らせて来たわけです。

何度も書くわけですが、それが「悪いのだ」とは全く申しません。
しかし、政治的に「敵」であった集団なり人間なりの犯した不法行為を糾弾することは、本当に「直視しにくいことに向き合う」ことなのでしょうか。
「奴ら」のした「許すべからざることに立ち向かう」ことなのではないでしょうか。

本当の意味で「直視しにくいことに向き合う」ということは、自らの拠って立つ集団、帰属意識を感じ、敬意を抱く集団なり思想信条なりのすなわち「友・敵」でいう「友」の犯してしまった不法行為・反倫理的行為に対し、自己のアイデンティティーなり帰属意識なりを揺るがされながらも、敢えて罪を罪として受け容れること、なのではないでしょうか。

もちろん、それが出来ないからといって(というより出来ない方が平均的です)、
他者の不法に対する批判をする権利を失うわけではありません、
告発者がどれほどの犯罪者であろうと、それは告発した罪が事実であるかどうかには
関係がありません。それはその通り。
というより、残虐行為なり不法行為なりの告発は、程度の差こそあれ、互いにスネに傷持つ集団同士が、「他者の」「許すべからざることに立ち向かう」ことで
世に問われてきたわけです。

でもそれって、本当に「我々」が「直視しにくいことに向き合って」いますか?
他者に対し、「我々は」「直視しなければならない」という単語を使って「あなた達も(お前達も)」「直視すべきだ(直視しろ)」と主張しているのではありませんか?

私は他者に対してそのように「直視」を強制すること自体を、必ずしも否定しようとは思いません。
「身内」の犯した罪を、自発的には絶対に「直視」しない人間の心性というものは、確かに存在するからです。

しかし、そうした人間の心性自体を、「悪」であり「普遍的価値」からの逸脱と断じてしまうことも、また敵を悪魔化し、問題を解決不能にすることだと考えます。

何故なら、そうした人間の行動が拠って立つのは、往々にして「身内」に対する連帯感、「友」に対する仲間意識であり、理性も倫理観もそこそこ兼ね揃えた「普通の人々」が、「身内」の残虐行為に何故か目をつぶってしまうのも、結局のところそうした「党派性の罠」によるものだからです。

(いやもちろん、国民国家それ自体がフィクションである以上、国民意識自体が
不毛なものなのだ、という反論はあり得るでしょうが……
「党派性の罠」は、果して「国民」や「民族」に限定されるものなのでしょうか?)

何度も何度も何度も書きますが、だからといって私は、「現代日本の」歴史修正主義への追及を止めよ、緩めよと、主張するわけでは毛頭ございません。
むしろそうした「党派性の罠」を打破するためにも、「身内」の恥であるこうした動きを厳しく批判しなければならないと考えております
(私はどちらかといえば保守に分類される人間であり、日本という国民国家それ自体に
かなり強い帰属意識を感じている人間なので、敢えてそうする、という事です)

しかし「我々」が「直視しにくいこと」に「向き合う」ことなど、原理的にいって不可能に近いし、それはいわゆる歴史修正主義国家主義よりもはるかに巨大な問題であるということは、否定しようがないと考えております。

 

追記、元々はブログに書いたものですが、こちらにも転載致しました。